NeoAlchemist No.292

最終更新日: 2020-11-21

古代ギリシャの紫色

氏田瑞葉

 紀元前のギリシャの衣服というと、当時作られた彫刻が着ているような丈が長くドレープの多い服が思い浮かぶだろう。では、そうした衣服の色は何色だったのだろうか。彫刻は彩色されていたのだが経年により色を失って今我々がよく知るような白色になっており、よい手がかりにはならない。文字としての記録も少なく、まだ詳しく分かっていないのが現状である。しかし、当時用いられていたことが確実な色もある。貝紫色である。貝紫色の英名はtyrian purpleであり、古代地中海世界において海上交易で栄えたフェニキア人が建設した都市のティルス (Tyrus) の名前を冠した色名である。生地を貝紫色に染めるにはアッキガイ科の貝類 (ホネガイのような見た目をしている) の分泌液を染料として利用すればよい。

 生地は染料に含まれる化合物が付着することにより染色される。貝紫染めにおいて鍵となっているのは貝の分泌液に含まれるジブロモインジゴである。(図1) この物質は赤みがかった紫色の、いわゆる貝紫色を呈する。


図1. ジブロモインジゴ

 ただ、貝の分泌液にジブロモインジゴそのものが含まれているわけではない。分泌液に含まれているのは図2の物質である。この物質に対して貝の持つ酵素や空気中の酸素がはたらくことで、まずは図3の物質が生成する。その後紫外線に当てるとジブロモインジゴが得られるのである。


図2       図3

 ジブロモインジゴは一般にジーンズなどの染色に使われる藍色染料のインジゴに臭素原子が2つ付加した物質である。図3の物質に紫外線をあてると、特に工夫をしなければ臭素原子の脱離もある程度起こりジブロモインジゴとインジゴの混合物となる。したがって、古代ギリシャの衣服に見られた貝紫色は純粋なジブロモインジゴの色よりも青みがかったものであったと予想される。

 古代地中海世界で貝紫染めが行われたことを示す記述は他の染色技術のものに比べてよく現存している。貝紫染めの衣服が極めて高価で社会的地位を示すものだったからだ。染料は1つの貝からごく微量しか取れないうえ、当時はたくさんの生地を使って豊かなドレープを入れた服が好まれたので服1着あたりに多くの染料を必要とした。したがって貝紫染めの衣服は裕福な人々しか着られないような希少なものだったのである。現代では貝から採取しなくてもジブロモインジゴは合成することが可能である。しかし、似た色のインジゴ系染料をより高純度で安価に合成することができるため工業的にはほとんど作られていない。かつて人々が求めた染料だが、人工的に合成できる時代になる頃には代替物で済まされる程度の価値のものでしかなくなっているのであるから、物の価値の移り変わりとは激しいものだ。

参考文献

・飯塚弘子 "古代ギリシアの衣服の文様に関する一考察" (1980)

・Chem-Station ジブロモインジゴ
https://www.chem-station.com/molecule/naturalmol/2012/02/dibromoindigo_3.html
(アクセス日: 2020/11/19)